PJ: 大谷 憲史
自殺予防週間に寄せて?=そして私は自殺を図った
2009年09月12日 07:00 JST
【PJニュース 2009年9月12日】前回からのつづき。9月10日は世界自殺予防デー。2007(平成19)年6月に閣議決定された「自殺総合対策大綱」において、毎年、9月10日からの11週間を自殺予防週間として設定し、国、地方公共団体が連携して、幅広い国民の参加による啓発活動を強力に推進することとされている。この自殺予防週間に合わせ、私の身に起きた事例を通し3回に分けて、自殺予防について考えてみた。
1996(平成8)年4月、上海日本人学校から帰国後、文部省(当時)の研究指定校の研究主任を任され、研究公開までの3年間多忙を極(きわ)めた。研究公開が終わった99(平成11)年4月22日、校長室でパニック障害を起こし、その後、うつ病になった。入退院を繰り返し、気分一新を図るため、01(平成13)年4月、転勤した。しかし、そこでも問題は起きた。
私は保護者の目を避けるため、隣町の公立病院の心療内科に通っていたが、その私の姿を保護者が見つけたのだろう。大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で事件が発生した01年6月8日、学校に匿名の電話がかかってきた。
「おたくの学校に精神病患者の先生がいるようだが、大丈夫なのか?」
私はこの電話のことは知らなかったのだが、翌日、教頭に呼び出され、「昨日、学校に匿名の電話があったが、あなたは精神病患者なのか?」とただされた。私はあ然とした。
転勤した際に、校長と教頭には、私の病気のことは説明したのだが、この教頭はまったく理解していなかったのである。このことはすぐに同僚も知るところなり、次第に学校から私の居場所がなくなっていった。心療内科の主治医からは、快方に向かっているとの説明を聞き喜んでいたのだが。
再度、入院することとなった。02(平成14)年1月の3学期からは復帰できると主治医から診断書をいただいたが、校長の回答は「ノー」。復帰してほしくないということであった。
どうすることもできなくなった私がとった手段は、自殺であった。
昔、かぐや姫が歌っていた「マキシーのために」の歌詞を思い出した。この曲は実話で、学生運動に参加し、その後自殺した女性をモデルにしている。その歌詞の中に、睡眠薬のことが出てくる。家には睡眠薬はなかったが、その代わりに抗うつ剤ならたくさんある。何も考えず、70錠近く飲んだ。本当は死にたくないのに、このような方法でしか抗議できない自分が悔しかった。
私のこの無念の思いを誰かに伝えたくて、インターネットの電子掲示板に書き込んだ。「死にたくはない・・・」と。
矛盾するような行動だが、自殺を図ろうとする人の多くは、本当は死にたくないのである。この世に自分の居場所がなくなり、自分の話を聞いてくれる人がいないという絶望感から、このような行動をとるのである。
次第に意識が朦朧(もうろう)としていく中で、救急車のサイレンの音だけが大きく聞こえた。ネットの電子掲示板の私の書き込みを見た大阪と福島の方が、私の地元の消防署に連絡をしてくれたのである。
胃が洗浄され、血液の透析を受けた。私の赤い血液がゆっくりと透析機へ流れていく。約6時間、その様子を眺めていた。
「自殺は止めよう」
私が学校に復帰して、子どもたちの前に立つことはなかった。主治医は、「うつ病のときは一人で大きな物事を決めてはいけない。家族と相談しなさい」と言われたが、仕事のことで離婚し、アパートには私一人。親に迷惑をかけることもできない。
もしかして、私の病気は、学校を辞めることで治るのではないだろうか。
そう考えるようになったきっかけがあった。主治医の勧めで、近くの公民館でボランティア活動を始めた。パソコンを教えるボランティアである。20代から80代までの受講生さんと接していく中で、自分が変わっていくような気がした。私の過去を知る友人からは、「顔色がよくなった」「笑い顔も出るようになった」と言われるようになった。
教育は学校だけではない。公民館にも学びたい人はたくさんいる。私はそのような人に教えていきたい。いつの間にか、前向きな考え方を持つようになった。
02(平成14)年11月、教員を辞めた。その後、03(平成15)年4月から、宮崎県教育委員会は、メンタルヘルスに関するプログラムを導入を始めた。導入がもう少し早ければと悔やんだが、私はすでに新しい目標を見つけていた。【つづく】
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