PJ: 大谷 憲史
昔、上海に日本人が10万人住んでいた(4)
2009年09月28日 07:18 JST

自由市場は子どもたちにとってワンダーランドであった(撮影:大谷憲史、1994年9月20日) 
【PJニュース 2009年9月28日】(3)からのつづき。戦後50年目を迎えた1995年、当時の上海日本人学校では、学習資料室の設置に向けて資料収集を行っていた。当時の国民学校の在校生や教職員の方々に、資料提供の手紙を送り、数多くの貴重な資料が集まった。それらの資料をもとにして教材を作成することができた。夏休みには上海市内の旧国民学校の校舎にも足を運んだ。日本の敗戦で焼却されたと思われた資料がきちんと保管されていた。これには驚いたが、同じ教育者として尊敬の念を抱いた。
2学期に入り、子どもたちが書いた手紙に、50年前の小学生や先生から返事が届いた。「先生、昔の生活も今とあまり変わっていないね」という声に混じって、「先生、戦争のことが書かれていないよ」と。そうなのである。戦争で大変苦労したことが書かれた手紙は少なかったのである。親の仕事で上海に渡った方、国民学校の教員として上海に赴任した方などさまざまであるが、上海で同じ時間を過ごしているにも関わらず、心に残っている上海の出来事はそれぞれ違うのである。今の子どもたちに当時のつらいことを話すよりも、楽しかった思い出を伝えたいと言う意識が働いたのだろうか。
「学校むかし物語」は、授業の枠を超えた活動となった。当時、上海日本人学校では、11月に文化祭が行われていた。学級活動の話し合いで、何をするかを話し合った。
「総合的な学習の時間で学んだ、『学校むかし物語』の劇をしたらよいと思います」ということになり、その脚本を私が書くこととなった。タイトルは、「ヒマワリ〜君をわすれない」である。第4幕にも及ぶ大作(?)となった。そのあらすじを紹介したい。
◇◇◇
〜第1幕〜
現在。夏休みのある日。
今年も、庭に見事に花が咲いたヒマワリを、一人の老人が見つめていた。
小学校3年になる孫娘のみゆきは、父親の仕事の関係で上海に住んでいた。夏休みになると、日本に戻り、ときどきゆうぞうおじいさんの家に遊びにきていた。
みゆきは、毎年この頃になると、ときどき庭に出ては一人で何時間もヒマワリを見つめているゆうぞうおじいさんを、不思議に思っていた。どうして長い時間見ているのか、いつか質問してみようとは思っていたが、言い出せないでいた。おばあさんから、「そっとしてあげなさい」と言われていたからだ。でも、ゆうぞうおじいさんのことが気になってしょうがない。「何か、悩みがあるのかな?」・・・
おばあさんがお買い物に出掛けていたある日、やっとチャンスが訪れた。
ゆうぞうおじいさんが一人で庭に立っていたのだ。みゆきは、おじいさんの横に立ってしばらくヒマワリをながめていた。そして、彼女はおじいさんに尋ねた。
「おじいさん、どうして今ごろになると、いつも一人でヒマワリを見つめているの?」
沈黙が二人の間を走ったが、ようやくおじいさんはみゆきに目をやり、話をはじめた。
「このヒマワリはな、みんなわしの教え子たちじゃ。上海で教えた子どもたちの生まれ変わりじゃよ」
「教え子? 上海? 私も上海でくらしているけど」
彼女にはちんぷんかんぷんであったが、おじいさんは話を続けた。「昔、日本と中国の間で戦争をしていた時のことだった」
〜第2幕〜
上海日本第一国民学校。
ゆうぞうおじいさんはこの学校の先生をしていた。ゆうぞう先生は、3年生の学級を受け持っていた。
上海事変や大東亜戦争の始まりで、この上海にも戦争の影響がではじめていた。学校の近くには海軍の陸戦隊の本部があり、軍隊が忙しそうに動いていた。子どもたちも登下校の途中でこの光景を目にしたり、遠足等の行事に兵隊さんが付き添っている様子を見たりして、子どもたちの日常の中にも戦争は入り込んでいた。
「中国との戦争に不安を感じている子どももいる」と思ったゆうぞう先生は、学級の花壇にヒマワリの花を植えることを考えた。「子どもたちと花を育てることで、気を紛らわしてやりたい。また、命の大切さも教えたい」
勉強の合間の時間や放課後の時間に、3年生の学級園づくりが始まった。そして、集めてきたヒマワリの種を、みんなで学級園にまいた。ヒマワリが成長するとともに、戦争の影響が上海にも出始めてきた。学級園の仕事もできないことがあった。それでもヒマワリはどんどん成長していった。
ある日、学級園を見に行くと、何本かのヒマワリが倒されていた。4年生の子どもたちの仕業だった。彼らは、戦争をまねして3年生の育てているヒマワリに攻撃をかけたのであった。3年生と4年生の間で、けんかが始まろうとしていた。
「みんな、けんかをやめましょ。まるで大人の戦争と同じよ。こんな時にこんなことでけんかをするなんて、おかしいよ。先生がヒマワリを植えようと言ったときことをわすれたの」
ヒマワリを植えようと言ったときのゆうぞう先生の言葉を思いだした子どもたち。
「こんなときだからこそ、子どもたちだけでもみんな仲良くしなければね」
4年生の中国人の子どもたちと仲直りをして、みんなで学級園のヒマワリを元に戻してやった。
「早く花が咲くといいね」
〜第3幕〜
暑い夏がやってきた。今年の夏は、去年よりも暑く感じる。ヒマワリも成長し、あとわずかで花を咲かすまでになった…。と同時に、戦争も激しくなり、6年生の子どもたちまで、軍隊のトラックに乗って軍隊の馬にやる草の草刈りに出掛けるようになった。
夏休みに入ったある日のこと。学校に遊びに来た3年生が、ヒマワリが咲いているのを見つけた。急いでみんなを呼びに行った。花が咲いたヒマワリを見て喜ぶみんな。そこには4年生の中国人のお友だちもいた。
2学期、先生がみんなを集めて、ヒマワリの種とりをすることにした。「来年も、このヒマワリが花を咲かせるといいね」
しかし、戦況はだんだん悪化していった。国民学校の男の先生に赤紙が来て、学校から戦争に出掛けるようになった。上海を離れて日本に引き揚げる家庭も出てきた。学校では男の先生が少なくなり、思うように学習もできなくなっていた。
そしてとうとう、ゆうぞう先生にも赤紙がやってきた。子どもたちを残して、戦争に行かなければならないのだ。ゆうぞう先生は、みんなとのお別れに何かしてやりたいと考えていた。日本に引き揚げる際、持って行ける荷物は厳しく制限されていた。
「そうだ。子どもたちに、みんなで育てたヒマワリの種を持たせてやろう。これなら小さいので、荷物にはならないだろう」
ゆうぞう先生とのお別れ会。おじいさんは、子ども一人一人にヒマワリの種を渡して、戦争に出掛けて行った・・・。
〜第4幕〜
あれから50年。
おじいさんの庭には、あの時育てた時と同じヒマワリがたくさん花を咲かせていた。おじいさんの横に座って話を聞いていたみゆきは、今までのおじいさんの話を真剣に聞いていた。
「ありがとう、おじいさん。私が暮らしている上海で、ずっと昔そんなことがあったなんて、知らなかった」
みゆきは、上海に戻ったらこのことをみんなに話してやろうと思った。そして、お土産にもらったおじいさんのヒマワリの種を、学校の花壇に植えようとも考えていた。
◇◇◇
国民学校の同窓会の方からいただいた手紙をもとにした劇は、無事に終わった。難しい内容の劇にも関わらず、子どもたちの演技に助けられた。
その後、国民学校に関する資料及び教材は、「上海学習資料室」にまとめられ、小学部・中学部の子どもたちの調べ学習はもとより、文化祭などの行事では、一般にも開放された。
私は、1996年3月に帰国した。5年後の2001年に上海を訪れたが、私たちやその後の先生方が作成した資料や教材は、上海学習資料コーナーにきちんと保管されていた。お話をお聞きすると、子どもたちの学習参考資料として活用されているとのことであった。
1993年の赴任当時、児童生徒数は100名程度であったが、2006年には2000名を越え、浦東(プートン)地区に新しく上海日本人学校浦東校が開校した。2010年には上海万博を控え、日本人が再び、10万人を超える日もそう遠くはないだろう。【了】
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