PJ: 大谷 憲史
昔、上海に日本人が10万人住んでいた(1)
2009年09月25日 04:44 JST

お世辞にも綺麗とは言えなかった初期の上海日本人学校の校舎(撮影:大谷憲史、1994年4月15日) 
【PJニュース 2009年9月25日】私は文部省(当時)派遣教員として、1993年4月から96年3月までの3年間、上海日本人学校に赴任した。海外勤務はたってからの希望であった。赴任当初、児童生徒数は100人足らずで、校舎は上海の企業のビルを間借りしていた。とても満足いく教育環境ではなかったが、とても子どもたちは明るかった。
私は小学部3年の担任で、社会科の授業では子どもたちを上海の街に連れ出し、現地理解教育を行っていた。現地理解教育は文部省から与えられた研究テーマでもあり、赴任したばかりで上海のことをすべて知っているわけではない私にとっては、子どもたち以上に勉強になった。
赴任3年目の夏のある日、私が気に入っていた黄浦江沿いにある外灘 (ワイタン)の公園を歩いていると、人民服を着た一人の高齢と思われる男性が私のそばにやってきた。中国語があまり得意ではなかったが、笑顔で答えた。
するとその男性が話しかけてきた。
「こんにちは。あなたは日本ですか。私は鹿児島県出身です」
なんと、日本人であった。その方の話によると、戦前、仕事の関係で上海に渡り、中国の方と結婚。戦争が始まり、一時は日本へ引き上げることも考えていたそうだが、家族のことを思い、上海に留(とど)まった。いつかは日本に帰りたいが、今となっては帰ることもできなくなってしまった。
私の素性を話すと、その方がポツリと話し始めた
「先生ならご存じかとは思いますが、この上海には昔、10万人の日本人が住んでいたのです・・・」
赴任3年目の1995年は、戦後50年の節目の年。当時の上海日本人学校では学習資料室を設置するために、関係資料を集めていた。日本人学校としての歴史も浅く、当然、昔の資料はなかった。インターネットも普及していなかったので、資料探しにはとても苦労した。
この年の3月3日に、上海の国民学校に通っていた方々が上海日本人学校を訪れた。時間の関係で、十分に子どもたちと交流することはできなかったが、この訪問を機にその後、子どもたちとの交流が始まることとなった。
その後、訪問のお礼とともに、当時の上海での暮らしについて手紙形式で子どもたちに伝えてほしい旨の手紙を送った。当時私は、毎月1回程度上海の様子を伝えるために、宮崎の地元紙の読者投稿欄に投稿を続けていた。その原稿の中で、戦前から戦後にかけて上海に住んでいた方に対して、資料や情報の提供を呼びかけた。
すると、さっそく宮崎市の方からお返事をいただいた。近々、上海に旅行に出掛けることになるので、お会いしたいとのことであった。その方を通して、貴重な資料や情報をいただくことができた。また、夏休みに入ると、国民学校の卒業生の方々からも多数のお手紙が届いた。
それらの資料をもとにして、小学部及び中学部用の現地理解教育に関する教材を作成した。そこで、小学部用の読み物教材『学 校 む か し 物 語』を紹介したい(【注】一部表記を変更しています)。
◇ ◇ ◇
『学校むかし物語』
わたしたちが住んでいる上海には、たくさんの日本人がいますね。わたしたちは、上海日本人学校という日本人のための学校に通っています。
でも、みなさんが生まれるずっと前にも、上海にはたくさんの日本人がいて、たくさんの日本人の学校がありました。
むかし、どんな学校があって、日本人はどんなくらしをしていたのでしょうか。知りたいとは思いませんか。この『学校むかし物語』を読んで、上海やわたしたち日本人のことについて勉強しましょう。
1 学校のはじまり
今から122年前の1873(明治6)年に、50人あまりの日本人がすでに上海に住んでいました。子どもが多かったのですが、学校がなかったので、東本願寺というお寺の中に、寺小屋「盲嬰堂(もうえいどう)」をつくりました。そこで、子どもたちに読み・書き・おさいほうなどを教えました。これが、上海での日本人の学校のはじまりです。1877(明治10)年9月のことでした。
1880(明治13)年になると、「親愛舎(しんあいしゃ)」とよばれる寺小屋がつくられました。むかしのことなので、どんな勉強をしていたかは、今のところわかりません。でも、たのしい学校生活をすごしていたのでしょうね。
1887(明治20)年に、この親愛舎は「開導学堂(かいどうがくどう)」と名前をかえました。そして、1902(明治35)年になると、「開導小学校」となりました。その名前にはじめて小学校がつくようになりました。
2 尋常小学校ができる
1905(明治38)年11月、日本人の集まりである「日本人協会」ができました。そして、この日本人協会が学校のお世話をすることになりました。学校の名前も「上海開堂尋常高等小学校」にかわりました。
1907(明治40)年になると、上海に住んでいる日本人たちが、安全に生活ができるようにと、「上海居留民団」というものができました。その年の10月には、レンガづくりの新しい校舎もできました。そして、このできたばかりの上海居留民団が、この学校を「上海居留民団立日本尋常高等小学校」にしました。この時の子どもたちの数は161人で、先生方は5人でした。
今から78年前の1917(大正6)年4月3日、ドイツ人によるりっぱなコンクリート4階建ての校舎もできました。この校舎は、今でも上海の中学校の校舎としてつかわれています。四川北路にあります。家の人といっしょに、見に行ってみるといいですね。
1923(大正12)年になると、上海にやってくる日本人の数がふえて、学校に通う子どもの数もふえてきました。そこで、居留民団は、今の平涼路に東部小学校をつくりました。
さらに1927(昭和2)年には西部小学校が、そして、1929(昭和4)年には中部小学校もつくられました。新しい学校ができたことで、ふるくからあった日本尋常高等小学校は、北部小学校と呼ばれるようになりました。
1939(昭和14)年になると、日本人の数は、44,851人にもなりました。そのため、また新しい学校ができました。第2北部小学校と第2中部小学校です。このころを尋常小学校の時代といいます。
3 国民学校の時代
1941(昭和16)年4月1日に、国民学校令というきまりがはじまりました。 このきまりによって、34年間続いた尋常小学校の時代はおわりました。これまでの尋常小学校は、「国民学校」という名前にかえることになったのです。
北部小学校→上海日本第1国民学校
東部小学校→上海日本第2国民学校
西部小学校→上海日本第3国民学校
中部小学校→上海日本第4国民学校
第2北部小学校→上海日本第5国民学校
第2中部小学校→上海日本第6国民学校
国民学校に通う子どもたちの数は8,545人になりました。そこで、6月には「上海日本第7国民学校」が、1942(昭和17)年には「上海日本第8国民学校」「上海日本第9国民学校」が続けて開校しました。
そのころ、日本は中国だけではなく、アメリカなどの連合国と戦争をしていました。それでも、上海に住む日本人の数はふえていきました。
1943(昭和18)年には、男57,905人、女44,811人の計102,716人。ついに10万人をこえたのです。日本人は共同租界・フランス租界といって、外国の人たちが住んでいる場所に住んでいましたが、そのほかの上海の町にも、中国人といっしょに住むようになっていました。戦争のため、わりと安全な上海ににげてきた日本人もいたのでしょう。
日本人の数が10万人をこえたこの年に、「上海日本第10国民学校」が開校しました。168人の子どもたちがこの学校に通っていました。これで、上海の町には10校もの日本人が通う国民学校ができたことになります。
1945(昭和20)年8月15日に、長かった戦争がおわりました。
上海にあった日本のたてものやいろいろな仕事をしていた会社は、中国の命令で何もすることができなくなりました。そして、10校あった国民学校でも、勉強することができなくなってしまいました。
そのころの子どもたちは、どうしていたのでしょうね。
戦争がおわったと同時に、日本に引きあげる日本人たちで、上海の町はたいへんでした。それでも何人かの日本人は、上海にのこりました。
上海にのこった日本人は、中国の命令で、「上海日僑(にっきょう)自治会」というものをつくりました。
お父さんの仕事のつごうで、上海に残った子どもたちは、日僑自治会がつくった小学校で勉強することができるようになりました。また、童話会とよばれる寺小屋でお勉強をしていました。
でも、お父さんの仕事がおわり、しだいに日本に引きあげる 日本人がふえてきました。そして、1947(昭和22)年7月までに、ほとんどの日本人が日本に引きあげました。
10万人もいた日本人のほとんどが、上海から姿をけしたのです。
こうして、1941(昭和16)年から1947(昭和22)年までの国民学校の時代は、おわりました。
◇ ◇ ◇
子どもたちの現地理解教育のために作成した教材だったが、教師であった私も当時の上海のことを知ることができ、良い勉強の機会となった。1995年、戦後50年という節目とともに、この学習はさらに発展していくこととなった。【つづく】
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