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PJ: 大谷 憲史

昔、上海に日本人が10万人住んでいた(2)
2009年09月26日 06:13 JST


旧上海第1国民学校の校舎は今でも中学校として使われている(撮影:大谷憲史 1995年8月30日) 

【PJニュース 2009年9月26日】(1)からのつづき。戦後50年目を迎えた1995年、当時の上海日本人学校では、学習資料室の設置に向けて資料収集を行っていた。当時の国民学校の在校生や教職員の方々に、資料提供の手紙を送り、数多くの貴重な資料が集まった。それらの資料をもとにして教材を作成することができた。

ただ単に教材を作成しても意味はないと考え、夏休みを利用して当時の国民学校の在校生のみなさんから届いた手紙をもとに、上海市内の10の国民学校を回った。建物は残っているものの企業に売却されて、学校としての機能をなくした校舎もあったが、半数近くが中学校として利用されていた。

太平洋戦争初期の1941(昭和16)年の上海では、それほど戦時色は強くなかった。だが、日本軍の旗色が悪くなるにつれて、学校内の様子も変わっていった。当時の国民学校時代の様子は、いただいた手紙に克明に書かれていた。証言をもとにして時系列にまとめてみた。

・ 私の学級は、山羊やうさぎの飼育を命ぜられた。コンクリートや石の中での生活で、教え子たちとこれらの飼料に困ったこともあった。(第1国民学校教師)

・ 教職員は内地(注:日本国内のこと)の学校より待遇が良かった。私どもも祝日の行事には、モーニングで出席した。(第1国民学校教師)

・ 校庭ではみんな裸足で、畑でじゃがいも・さつまいも・たまねぎ等をつくった。(第1国民学校卒業生)

・ 運動会には、2年生全体で日の丸の旗を持って遊戯をした。(第5国民学校教師)

・ 児童が生活している環境に適した副読本を作るべきだということを総領事館に進言したが、実現できなかった。自分なりに簡単なカリキュラムを作成し、上海の市街や郊外の参観、中国人の風習の調査等を実施した。(第5国民学校教師)

・ 「大陸に育つ」を目標に、内地の教育に比べればゆとりのある学校で、上海の学習院と呼ばれていた。(第5国民学校教師)

・ 1943(昭和18)年秋、上海競馬場で開催した「大東亜8カ国大運動会」に、日本代表として5・6年女子がナギナタを公開した。各国とも特技を発表し、盛大な体育祭であった。これが最初で最後であった。(第5国民学校教師)

・ 第8国民学校は、開校時1260人の子どもたちがいた。学級数25で、教職員は28人であった。共学ではなく、男女別のクラス編成であった。(第8国民学校卒業生)

・ 戦時体制下の教育は、上海でも徐々に進められた。体力増強、戦意の高揚が図られた。第1国民学校は、高等科併設の唯一の学校で、軍事教練的色彩も濃厚であった。戦争の意味付けを子どもたちに理解させるには、相当な苦労と困難があった。(第1国民学校教師)

・ 1944(昭和19)年より、皇軍の協力奉仕として、6年高等科生を校外に引率し、軍事飼料のための草刈りをした。(第1国民学校教師)

・ 学校の遠足では、列の前後に軍隊が付き添ってくれた。(第8・9国民学校教師)

・ 遠足などもぜいたくは許されないので、よく歩いた。郊外に出掛けると、戦争の時の残壕や骸骨、こんもりと盛り上げられた中国人の墓等がたくさんあった。(第1国民学校卒業生)

・ 秋には全校音楽会があり、2年生で『兵隊さんよ、ありがとう』の歌をピアノ伴奏でやったが、途中で子どもの歌が早くなり困った。(第5国民学校教師)

・ 44(昭和19)年2月、上海にある国民学校の教職員として初の赤紙を受け取り、満州のソ連国境に出兵した。(第7国民学校教師)

・ 赤紙による出征で男の教師が少なくなった。そこで、一部の学生が国民学校の補助教員として、有無を言わさず各校に配属された。(第7国民学校卒業生)

・ 集団下校中、興亜院の前の道路で機銃掃射を受けた。また、学校宿直の時、校門前にものすごい爆弾が落ち、4階の屋上にまで地面のコンクリートが吹き上げられた。(第1国民学校教師)

・ 4階建ての鉄筋校舎は、1トン爆弾のために鉄骨を残してブラブラとなり、門番のインド人は爆風で吹き飛ばされた。(第1国民学校教師)

・ 戦争で病気になったり、けがを負ったりした兵隊の慰問に出掛けた。(第1国民学校卒業生)

・ 上海の空にもときどきB29が飛んで来て、空襲があった。衣服には姓名・血液型を書いたものをつけ、集団で登校した。(第1国民学校卒業生)

・ 1945(昭和20)年8月15日、夏季休業中に非常召集がかかり出勤した。職員室で天皇陛下の玉音を聴き、無条件で降伏した事実を知った。校長以下、教職員全員、うなだれて蒼白(そうはく)となり、涙で無言の時間を過ごした。(第1国民学校教師)

・ 45(昭和29)年9月下旬から、個人宅を借用して午前中だけの補習学習を(国語・算数)をはじめた。昔の寺子屋教育と同じように教師と児童が対座し、小学校1年生から高等科までの子どもたちを教えた。この補習学習も、12月頃(ごろ)から引き揚げが始まったので、中止になった。(第1国民学校教師)

・ 終戦で学校が閉鎖され、勉強の場は日僑自治会が開設した小学校であった。この学校で6年生の後半を過ごし、「私たちは、新日本建設の道を進みます。」と誓い、卒業した。46(昭和21)年4月に帰国した。(第8国民学校、日僑自治会小学校卒業生)

これらの資料を手にして、上海市内の国民学校を回った。半数近くが現在も中学校として利用されているため、上海市政府の教育関係部署の許可がないと入れないと言われた。しかし事情を説明すると、で1校だけではあったが、校長先生の許可で校舎内に入ることができた。

白亜の奇麗な校舎で、補修などの手入れをする以外は大幅なリニューアルをすることなく使っているとのことであった。私を案内した校長先生は、資料室で当時の国民学校の写真を見せてくださった。これには驚いた。日本の敗戦で当時の資料はすべて焼却されたのではないかと思ったのだが、この中学校は校舎だけではなく、昔の資料までもきちんと保管していたのである。日本と中国、立場は違うが同じ教育者として尊敬の念を抱いた。

教材ができた。当時の国民学校関係者からの手紙も届いた。実際に国民学校の校舎にも足を運んだ。2学期の授業で、子どもたちがどのような反応を示すかが楽しみであった【つづく】

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