PJ: 大谷 憲史
昔、上海に日本人が10万人住んでいた(3)
2009年09月27日 07:07 JST

旧上海第6国民学校は白亜の美しい校舎で今でも中学校として使われている(撮影:大谷憲史、1995年8月30日) 
【PJニュース 2009年9月27日】(2)からのつづき。戦後50年目を迎えた1995年、当時の上海日本人学校では、学習資料室の設置に向けて資料収集を行っていた。当時の国民学校の在校生や教職員の方々に、資料提供の手紙を送り、数多くの貴重な資料が集まった。それらの資料をもとにして教材を作成することができた。夏休みには上海市内の旧国民学校の校舎にも足を運んだ。日本の敗戦で焼却されたと思われた資料がきちんと保管されていた。これには驚いたが、同じ教育者として尊敬の念を抱いた。
2学期に入り、『学校むかし物語』の教材を使った授業が始まった。
子どもたちは上海で生活しているとはいえ、日本の生活とほとんどかわりはない。日本と同じような高層マンションに住み、スクールバスで登下校する。家では衛星放送で日本のテレビを観て、買い物は日本製の商品を購入する。
まちがいなく上海で生活しているのだが、上海の子どもたちとの交流が少なく、いわゆる上海の下町と呼ばれる通りを歩いたことがない子どもも多かった。
当時の文部省は、在外教育施設(日本人学校、補習授業校等)を対象に「現地理解教育」の研究を推進していた。上海日本人学校も研究校の一つであった。子どもたちの安全確保を第一としながら、授業を通して、今の上海に接する機会を多く持つようにしていた。
今の上海と接する機会が少ない子どもたちに対して、50年以上も前のことを授業で取り上げるわけなので、子どもたちの反応はいまいちであるのも当然であった。
そこで、子どもたちに対して、「50年前の小学生や先生方に、手紙を書こう」という課題を出した。当時の国民学校の同窓会の方々から手紙をいただいたことで、50年前の国民学校と現在の上海日本人学校とのチャンネルは開いている。
同窓会の方々の手紙をもとに子どもたちはグループになって、どのようなことを書くか話し合いながら手紙を書いていた。
当時の子どもたちが書いた手紙を紹介したいところだが、残念ながら手元にはない。だが、同窓会の方からの返事の手紙の一部は手元にあるので、以下に紹介したい(注:表記等は原文のままです)。
◇◇◇
西田 麻美(仮名) 様
西田さんのお手紙をよみました。知らない方からの手紙なので、おどろいてよみました。
戦後50年、中国では日本人の子供さんたちが、どのようにして勉強していらっしゃるのかと思っていましたが、安心いたしました。
私は、83才になった、おばあさんです。
今から55年前、私の夫と5才になる娘と3人で、中国にわたりました。もちろん夫の仕事のつごうです。それまで私は、日本で国民学校の先生をしていました。そんなこともあって、そのつぎの年、上海の第五国民学校につとめました。
そして3年間、この学校の先生をいたしました。
最初、3年生の女子組を受け持ちました。女子組が2つ、男子組2つと4組の学年でした。1クラスの人数は、40人以上だったと思っています。3年、4年と持ち上がって、その次の年は4年の女子を受け持ちました。その間の学校の様子などを書いてみたいと思います。
上海第五国民学校は、5番目にできた学校です。新しく大きな学校で、きれいなので有名でした。上海市の北部の町はずれにあって、たくさんの特別教室があり、また、広いしばふの運動場やプール、学校のまわりのへいのところには、たくさんの木が植えられていて、おちついた学校でした。
1年から6年生まで25学級もあり、1200人以上の子どもがいました。おたがいの組がきょうそうしあって、一生けんめい勉強にはげみました。私もまだわかくて、がんばりました。
校門にはインド人の門番のおじさんがいました。おばさんとかわいい赤ちゃんが3人で門の近くの家に住んでいました。やさしい人たちでした。また、ボーイさんも日本語がペラペラに上手で、私たちはたいへん助かりました。
校外学習としては、近くの上海神社におまいりしたり、また、20分ほどあるけば広い田んぼの中に忠魂碑(ちゅうこんひ)がたっていたので、天気のよい日には、クラスでおまいりしました。そして、まわりの草花のかんさつなどしました。また、とちゅうの道で、農家の人たちの仕事ぶりなどを見ました。
また、春秋の遠足には、汽車に乗って遠くまで行きました。上海の3年間は、私の人生の中でとても楽しいときでありました。
私が上海に行ってからも、日本人がどんどんふえて、四つも新しい国民学校がたちました。3年間しか生活していませんので、くわしいことはわかりませんでしたが、あなたのしつもんにこたえましょう。
1 どんな遊びをしていましたか。
学校では、運動場でかけっこ、てつぼう、砂場あそび、ボールあそびなど。
家に帰っては、私にはよく分かりませんが、むすめの話によりますと、女の子は路地(ろじ)の中で、石けりやなわとびなどをしていたし、男の子はせんそうごっこなどをしていたようです。
2 むかしの科目は、なにがありましたか。
算数・国語・理科・音楽・体育・図工など。教科書は、日本のものとまったく同じでした。
3 むかしは、どんな食べ物を食べていましたか。
上海にはたくさんの品物があって、わりにやすくておいしい物を食べていました。今とあまりかわりありませんでした。学校には、おべんとうを持って行きました。
あまりよい答にはなりませんが、ごめんなさい。
私共家族は、昭和19年に上海をあとにして、北支(記者注:現在の中国東北部)に近い町にうつりすみました。そこで終戦になり、日本に引き揚げてきました。
現在住んでいる富山は、東には3000m以上もある北アルプスの山なみがそびえ、4Kmほど行けば、日本海に出ます。けしきのよいところですが、冬になると雪がたくさんふるのでこまります。
私も年で、足や腰がよわくなりましたが、草花を植えたり、家族が食べるやさいなどをつくったりして、楽しんでいます。
上海の秋はすっきりしたよいきせつになりますね。
どうか、からだを大切にして勉強してください。 さようなら
◇◇◇
学校に届いた手紙をうれしそうに読んでいる子どもたちが印象的であった。
「先生、昔の生活も今とあまり変わっていないね」
「楽しそうだね」
という声に混じって、一人の子どもが私に質問した。
「先生、戦争のことが書かれていないよ」
そうなのである。
「戦争で大変苦労した」「上海市内でも戦闘があった」などが書かれた手紙は少なかったのである。
そのなかで、当時の戦時中の学校の様子を詳しく伝える手紙があったので、子どもたちにその一部を紹介した。
◇◇◇
村田清作(仮名)
(前略)
昭和16年12月8日(午前4時前後)真珠湾攻撃と同時刻頃、私は上海の黄浦江のバンド(記者注:外灘・ワイタン)で英軍艦が横倒しに沈んでいた現場をこの目で見たのです。当時私は独身でありましたが、これから先、戦況の如何によらず外地の教育はどうなるのだろうかと、緊張と一種の不安な気持ちですごしました。
戦時体制下の教育は、上海でも徐々に進められましたが、体力増強、戦意の昂揚が図られました。当校(記者注:上海第一日本国民学校)は、高等科併置の唯一の学校で軍事教練的色彩も濃厚でありました。
戦争の意味づけを子どもたちに理解させるためには、相当な苦労と困難がありましたが、教職員も忠実に精進努力を重ねました。
昭和19年6月より、皇軍の協力奉仕として、6年高等科生を校外に引率し、 軍事飼料のための草刈りをしました。また、特別活動の奉仕作業として、陸軍の兵隊さんの見守る中、小銃の火薬詰めもしました。児童たちは、お国のために兵隊さんのために無言で作業に取り組みました。私は心を引き締め、静かに児童たち の姿を見守っていました。
昭和20年8月15日、夏季休業中の非常召集により、出勤しました。戦争終結。
職員室で一同陛下の玉音を聴き、無条件降伏した事実を知り、校長以下教職員全員、うなだれ蒼白(そうはく)となり、涙で無言の時間を過ごしました。
混乱、恐怖の生活に明け暮れましたが、保護者からの要望により9月下旬から隣保班単位で個人宅を借用して、午前中だけ補習学習(算数・国語)を開始しました。昔の寺子屋教育のように教師と児童が対座し、1年生から高等科まで指導しました。
苦労と辛抱に耐える学習は、人間性の本音がにじみ出て触れ合いのぬくもりをしみじみと味わいました。この学習も12月頃から引き揚げ帰国が始まったので、中止になりました。
昭和21年4月6日。住居から第5次引き揚げ者として出発しました。家族は、妻、長男(2才)、長女(生後2カ月)、荷物は身の回り必要以外は、一切持参できませんでした。4月11日、九州の博多港に上陸しました。
(後略)
◇◇◇
親の仕事で上海に渡った方、国民学校の教員として上海に赴任した方などさまざまであるが、上海で同じ時間を過ごしているにも関わらず、心に残っている上海の出来事はそれぞれ違うのである。
私が紹介する手紙に真剣に耳を傾けていた子どもたちの顔が今でも目に浮かぶ。【つづく】
■関連情報
PJニュースは一般市民からパブリック・ジャーナリスト(PJ:市民記者)を募り、市民主体型のジャーナリズムを目指すパブリック・メディアです。身近な話題から政治論議までニュースやオピニオンを幅広く提供しています。
PJ募集中!みなさんもPJに登録して身の丈にあったニュースや多くの人に伝えたいオピニオンをパブリックに伝えてみませんか。

