PJ: 大谷 憲史
【戦争を語り継ぐ】昔、小学校が燃えた=宮崎市内海地区
2009年11月24日 06:10 JST
満蒙開拓青少年義勇軍の話をする石田實さん(撮影:大谷憲史、11月22日、宮崎市内海やっこ荘) 
【PJニュース 2009年11月24日】11月22日、宮崎市内海(うちうみ)の「内海やっこ荘」(宮崎市介護長寿課関連施設)で、「戦争体験を語り継ぐ三世代交流の集い」(原爆と戦争・宮崎空襲展を成功させる会、代表:池田一・元宮崎大学学長)が行われた。今回は、地元内海から満蒙開拓青少年義勇軍に入隊された方の話と、地区民の方々から内海空襲についての話を伺った。
宮崎市内海在住の石田實(みのる)さん(79)は、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊してから終戦までの半年間の様子について語った。
満蒙開拓青少年義勇軍は重要国策の一つとして、1937(昭和12)年11月の閣議決定に基づき、翌年1月に設立され、1945(昭和20)年の終戦まで存続した。当時、建国して日が浅い満州(現在の中国東北部)に広がる未開拓地に青少年を送り出し、大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日本と満州の民族協和を図ることにあった。
石田さんが内海小学校に入学した年は入学生が非常に多く、初めて組み分けがあった。その後、戦争が始まって小学校高学年になると、授業の一環として、軍事教練や日本軍の戦果を伝える新聞記事の切り抜きなどの作業をしていた。また、重要な労働力として、農作業も毎日のように行われた。高等科1、2年(今の中学校1、2年)になると戦争が激しくなり、ほとんど授業はなく、赤江飛行場(現・宮崎空港)の補修作業に出掛けたことを覚えている。
満蒙開拓青少年義勇軍への入隊については、学校の先生と親の間で話はあったと思うが、はっきりとしたことは覚えていない。しかし、親から「(義勇軍に)行くか」と言われて、「いや」とは言えない状況であった。義勇軍への出発の前夜、家族や近所の人たちが簡単なお祝いをしてくれたことを覚えている。
1945(昭和20)年3月13日、肩に「満蒙開拓青少年義勇軍」と書かれた白いたすきをかけられ、石田さんは内海駅を出発した。宮崎駅で結団式が行われ、そのとき初めて、自分は「満蒙開拓青少年義勇軍宮崎28中隊」に所属することを知った。
義勇軍での訓練期間は3年。そのほとんどは満州での現地訓練であったが、3か月にわたる基礎的な訓練を行う施設として、茨城県内原町(現在は合併により水戸市内原)に内原訓練所が開設された。
宮崎市で一泊した石田さんたちは、アメリカ軍からの攻撃を避けるべく夜に列車を走らせ、予定より2日遅れて内原訓練所に着いた。
しかし、戦況は激しくなり、満州に渡る船がいないとのことで、元軍事用地であった福島県西白河郡西郷村真船川谷へ移動した。当時の内原訓練所の加藤完治所長らは、この地に大農場を作ることを計画していたのである。石田さんたちは、朝早くから夜遅くまで、毎日のように開墾を行った。
食べ盛りの時期ではあったが、食事は満足できるものではなかった。隊に手紙が届くことは珍しかったが、ある日、母から手紙が届き、父が召集されたことを知った。母のことをとても心配したが、母を慰め励ますような手紙を書くことはできなかった。
6-7月ごろ、福島への空襲が激しくなったことで、約30キロ離れた栃木へ移動することとなった。そこでも、軍事訓練と農作業が行われた。食料も十分ではなく、人家が少ない寂しいところであった。
そして8月。ラジオも何もなく、いつも情報は中隊長を通じて、班長から伝えられていた。しかし、この日はいつもと違い、中隊長が厳しい面持ちで、日本が戦争に負けたことを全員に告げた。ここでの訓練をとりやめて、内原訓練所へ帰ることになった。9月中旬、40数名の小隊の仲間とともに、宮崎に戻った。
石田さんが離れていた宮崎市内海では、悲惨な出来事が起きていた。その当時の様子を内海地区の皆さんが話した。
戦時中、内海地区にはアメリカ軍の上陸に備えて、人間魚雷「回天」の発進基地がつくられた。内海地区の民家には特攻隊員などの兵隊が駐留して地区民を守るとともに、いざというときのための任務についていた。
宮崎市の住吉海岸からアメリカ軍が上陸するのではないかと緊迫感が高まるなか、回天の基地がある内海地区をアメリカ軍が空襲した。
その日、小学校ではカライモの作業をするため、高学年の小学生たちは学校から離れた場所にいた。アメリカ軍の艦載機による機銃掃射を受けた。焼夷(しょうい)弾により、平屋造りの小学校が一気に燃え上がった。当時のことを振り返り、涙ぐむ方もいらっしゃった。地区民の皆さんの話のなかで、幾度となく「ヒロちゃん」という名前が出された。そのヒロちゃんが、右腕を失った様子を話された。
避難しようとしていた当時小学校3年の少女は、右腕に弾を受けた。痛みを感じることはなく、安全な防空壕へ避難した。しかし、水が浸入してきたため、別の場所へ避難した。一緒に避難していた小学校の先生から「ちょっと他を見ていなさい」と言われて右腕の措置を受けたが、どうしようもない状況で、右腕を失うこととなった。午後、内海から宮崎の病院へ向かった。敵の空襲を避けながら、宮崎の病院に着いたのは夜であった。手術を受け、命をとりとめた。
参加されたみなさんの話はいずれも生々しかったが、「戦争はしてはいけない」という強いメッセージを感じた。
今回、文化祭などの行事の関係で若い世代の参加はなかったが、より多くの方々に聞いていただきたい話であった。下記の動画もご覧いただければ幸いである。【了】
■関連情報
【YouTube動画】
○【戦争を語り継ぐ13】満蒙開拓青少年義勇軍で過ごした半年間・その1
○【戦争を語り継ぐ13】満蒙開拓青少年義勇軍で過ごした半年間・その2
○【戦争を語り継ぐ13】満蒙開拓青少年義勇軍で過ごした半年間・その3
○【戦争を語り継ぐ14】昔、小学校が燃えた・その1
○【戦争を語り継ぐ14】昔、小学校が燃えた・その2
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