PJ: 大谷 憲史
【戦争を語り継ぐ】原爆と戦争・赤江空襲展(2)「赤江飛行場のこと」
2009年12月09日 08:06 JST

当時の赤江地区の地図を使っ説明する川崎好さん(宮崎市赤江公民館、12月6日、撮影:大谷憲史) 
【PJニュース 2009年12月9日】12月6日、宮崎市赤江(あかえ)の赤江公民館で、「原爆と戦争・赤江空襲展」(原爆と戦争・宮崎空襲展を成功させる会、代表:池田一・元宮崎大学学長)が行われた。
会場の赤江公民館会議室には、赤江空襲に関する写真や資料が展示され、午前と午後に分けて「戦争体験を語り継ぐ三世代交流の集い」が行われた。午後2時からの部では、地元・宮崎市赤江在住の川崎好(よしみ)さん(79)が、戦時中の赤江海軍基地飛行場の建設や出撃の様子、アメリカ軍による赤江飛行場空襲について語った。
赤江飛行場(現・宮崎空港)が建設されるまでは、この赤江地区は宮崎平野随一の穀倉地帯であった。1941(昭和16)年3月のある日、赤江地区の田元、高畑、津屋原の住民が、当時の赤江町役場に集められた。国策としての飛行場建設が伝えられ、その後、何度となく話し合いが繰り返されたが、当時の戦況を考えると、国策に従わざるを得なかった。この3集落がすっぽりと入る約200町歩(1万9834アール)を、国が買収することとなった。ただし、その年までは稲作をしても良いということになり、稲作をしながら移転地を探すこととなった。
稲刈りが終わるとともに、造成工事が始まった。宮崎軽便鉄道(現・JR九州日南線)を造成工事現場に連結させ、小型機関車がトロッコ10数台を牽引して土砂を運んだ。当時11歳の川崎少年は、その様子を興味津々で眺めていた。1か月後には土砂が川崎少年の自宅近くまで押し寄せ、今にも家を飲み込みそうだったことを鮮明に覚えていると語った。
その年の12月中旬までには3集落のほとんどの人が移転したが、川崎少年の自宅とあと1軒だけが、最後まで集落に残った。そして、年末の12月30日、住み慣れた田元集落を離れた。
年が明けて造成工事が終わると、基礎工事が始まった。請負労働者に混じって、学徒動員された児童生徒や近郊から動員された婦人挺身隊、勤労報国隊なども参加した。川崎少年も、基礎工事の一部である小石並べを手伝った。
1943(昭和18)年12月1日付けで、旧海軍航空隊練習基地が開設された。当時のことを記した記録によると、隊門には、「宮崎海軍航空隊」と「赤江航空隊練習部」の二枚の表札が掲げられた。翌44(昭和19)年7月には、それまでの練習基地から「作戦基地」に転換する方針が出され、10月から実戦体制となった。赤江飛行場には、一式陸上攻撃機(一式陸攻)、呑龍(百式重爆撃機)、銀河(陸上爆撃機)、飛龍(四式重爆撃機)、紫電(局地戦闘機)、零戦(零式艦上戦闘機)が配備された。
実戦体制に入るとともに、新たに機体を守り隠すための掩体壕(えんたいごう)の工事が始まり、宮崎市内の学生が総動員された。滑走路から掩体壕までの誘導路もつくられた。掩体壕は戦後、民間に払い下げられ、いまでも数基が残されている。この掩体壕を保存し、将来的には「宮崎平和特攻資料館」を建設する動きも出ている。
1945(昭和20)年3月18日。川崎さんは、今でもこの日付は忘れられないと言う。宮崎大空襲の日であった。アメリカ軍の艦載機グラマンが、この日だけでも890機も来襲した。主目標は、当然、赤江飛行場であった。おびただしい黒煙が立ち上がり、飛行場の隊舎や施設などが壊滅した。
掩体壕近くも空襲に遭った。今年2月、宮崎空港近くで不発弾が見つかり処理されたが、まだ他にも不発弾があるのではないかと、川崎さんが話した。また、時限爆弾も多数落とされ、午前中に落とされた爆弾が夕方近くに爆発することもあった。このアメリカ軍による時限爆弾については、11月22日に宮崎市内海地区で行われた「戦争体験を語り継ぐ三世代交流の集い」でも話が出された。この」時限爆弾に悩まされた住民も少なくない。
川崎さんの話の中で、多くの韓国人労働者が飛行場建設に参加していたことが話題になった。韓国人の飯場もいくつかあり、アメリカ軍が三角兵舎を攻撃したところ、中から数人の韓国人が逃げ出したような話が出された。
これら韓国人労働者は飛行場建設だけではなく、当時、極秘扱いされていた地下道も建設していたことが、戦後、団地造成の際に分かった。地盤沈下がひどかったため地質を調査したところ、コンクリートで固められた立派な地下道が発見された。危険なために地下道は埋められたが、アメリカ軍の宮崎上陸に備えてつくられたものではないかということだが、資料がなく詳しいことは分かっていない。
アメリカ軍による宮崎上陸作戦については、前述した宮崎市内海地区でも聞いた。その当時、日向灘からアメリカ軍が侵攻してくるという情報は宮崎の人々にとっては脅威であり、実際に日向灘沖にはアメリカ軍の艦隊が待機していたとのことである。終戦があと1週間延びていたら、内海地区は壊滅したであろうという声も聞いた。
これまで数年にわたり、戦争体験者の取材を続けてきた。いずれも個人の戦争体験であり、ピックアップされた話ではあるが、昔からその地区で生活してきた方々にとっては、みんなで共有してきた体験であり、真実である。
午前中に話をされた西村史生さん(85)が、「私のような者の話でも良いのでしょうか」と聞かれたが、戦争を知らない世代にとっては、貴重な話である。午後の部では、終戦を関東軍の士官として北朝鮮で迎えた方も参加し、砂漠の中でラクダの尿を飲んで飢えをしのいだことや終戦後の捕虜生活などの話を披露された。現在、山崎豊子原作の『不毛地帯』が放映されているが、主人公がシベリアで過ごした捕虜生活のことが思い出された。
この会に参加した大学生から、「もっと多くの方に話を聞いてほしいと思います」と感想が出されたが、まさにその通りである。午後の部には、約20人が参加したが、もっと多くの方々に聞いてほしい話であった。YouTubeには、「戦争を語り継ぐシリーズ」として動画を掲載しているので、ご覧いただきたい。
今後も、戦争体験者の記録を続けていくことにする。【了】
■関連情報
【YouTube動画】
○【戦争を語り継ぐ16】赤江飛行場建設当時の様子・その1
(他、4本掲載)
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